第一章 緒言
新品のボールペンを渡されたとき、人は字を書かない。回る。
文具店の試し書き用紙を一瞥すれば足りる。そこに堆積しているのは文章ではなく渦である。言語を獲得して久しい生物が、筆記具の吐出を確かめる段になると、突如として言葉を手放し、紙の上で旋回を始める。これを「なんとなく」で片づけてきたことは、関連諸学の怠慢と言うほかない。
筆者はこの現象を初動螺旋と名づけ、次の仮説を立てた。
初動螺旋説 人類はペンを試すとき、必ず回る1。
第二章 標本の採取と汚染
近所の岡持文具店で、捨てる前の試し書き用紙をいただけないかと申し出た。店主は理由を尋ねず、十一枚を菓子の空き箱に入れて渡してくれた。尋ねられなかったことに、ここで謝意を表する。
十三時十分、自宅の床に標本を展開。一筆で書かれた一まとまりを一標本とし、番号札を置き始める。
十四時四十分、境界問題が発生した。渦はどこまでが渦で、どこからが毛玉なのか。四十分議論し(相手はいない)、「ぐるぐるとは、ぐるぐるしているものをいう」という定義を採用する。
十五時三十分、計測に入る。平均回転数は三・五周であった2。分度器を買ってきたが、渦に分度器を当てても何もわからないことがわかった。
十六時五分、集計用の赤ペンのインクが出なくなった。筆者は無意識に手元の余白で試した。回った。手元の余白は標本第七紙であった。
以後、青、黒、三色ペンの赤と持ち替えるたびに同じことが起きた。気づいた時点で筆者由来の渦は標本紙全体に広がっていた。その数、二十三。調査者が調査対象の側に回るという、人類学でも滅多にない事態である3。
十七時五十分から十九時二十分までの記録はない。床で寝ていた。起きると左頬に標本第四紙の渦が転写されていた。
二十時三十分、集計完了。
第三章 分類
採取した七百六十二標本を、次の十二型に分類した。
| 型 | 名称 | 内容 | 標本数 |
|---|---|---|---|
| I | 右旋螺旋 | 時計回りの渦 | 301 |
| II | 左旋螺旋 | 反時計回りの渦 | 118 |
| III | 連環型 | 横へ移動するバネ状の渦 | 97 |
| IV | 波動型 | にょろにょろ | 64 |
| V | 自署型 | 自分の名字。多くは個人情報 | 52 |
| VI | 単音型 | 「あ」 | 41 |
| VII | 律儀型 | 「テスト」と書く | 19 |
| VIII | 独白型 | 「ねむい」「ちがう」など | 8 |
| IX | 具象型 | 犬。本人はそう主張すると思われる | 7 |
| X | 永型 | 「永」 | 3 |
| XI | 判定不能型 | 毛玉、または本当の毛 | 29 |
| XII | 調査者混入型 | 筆者 | 23 |

混入の二十三を除いた七百三十九のうち、回転系(I〜III型)は五百十六。回転率六十九・八パーセントである。
三割の人類が回っていない。「必ず」の語を掲げた学説としては致命的な数字であり、筆者は二十一時から夕食を抜いて救済に取りかかった。
まず波動型は、螺旋を真横から見たものにすぎない。これを側視回転と呼ぶ。単音型の「あ」には明白な環がある。潜在回転である。独白型の「ねむい」も同様で、「ね」と「む」が回っている。自署型は、名字に含まれる「口」「田」を角ばった回転、すなわち角旋と認定して救済した。律儀型の「ス」は、回り始めたが途中で社会性に負けた形であり、中断旋回とする。犬は耳が丸い。判定不能型については、判定できない以上、回っていないとも言えない。
こうして二十二時十分、七百三十六標本が回転の側に移った。
残るは三つ。X型、「永」である。
二時間見た。回っていない。はねて、はらって、止まっている。楷書の整った「永」が三つ、渦の海の中で微動だにせず立っている。三名の人間が、新しいペンを前にして言葉を手放さなかった。筆者はこの三名を「永の三名」と呼び、この夜はじめて少し怖くなった。
第四章 査読
原稿を、知人で元高校教員の鍋島に送り、査読を依頼した。翌朝届いた所見は三行であった。
定義が循環している。 判定不能を賛成票に数えるな。 頬の写真は要らない。
判定は不採録。筆者は「循環はこの分野における美点である」と返信したが、以後返事はない。
第五章 永の三名
翌朝十時、岡持文具店に出向き、店主に標本を示して、この三例の書き手に心当たりはないかと尋ねた。
店主は老眼鏡をかけ、紙を少し遠ざけて見た。
「それ、私です」
新しいペンが入荷すると、棚に出す前に一本ずつ確かめるのだという。三十年そうしているのだという。なぜ「永」なのかと尋ねると、「インクが出ればいいんだから」と言われた。回答になっていないが、回ってもいない。
筆者は礼を述べ、赤ペンを一本買った。店主が、どうぞ試してくださいと紙を差し出した。筆者は回った。
結語
全標本 762 除外 調査者混入 23、店主由来 3 有効標本 736 うち回転 736 回転率 100.0パーセント
以上により、初動螺旋説を次のとおり改訂する。
初動螺旋説(改訂版) 人類はペンを試すとき、必ず回る。ただし岡持文具店の店主を除く。
改訂稿は鍋島に再度送付し、「店主を除く理由がない」との所見をもって二度目の不採録となった。この指摘には一理あるため、現在、店主本人に渦を一つ書いてもらえないか交渉している。二度断られた。

ガリレオ・高尾山